Written by Yoshioka Shunsuke

愛を換気しましょう。

「新時代が来たというのに、あなたはなにも変われないのね」

私がベランダで一服していると、
妻が窓の隙間からわずかに顔を覗かせてそう言った。
時刻は深夜12時5分。
もう5月1日になったのだと思った瞬間、
今日から年号が変わったということを不意に思い出した。
妻はそのことに掛けて、いつまでもタバコをやめられない
私に対する嫌味を言ったのだろう。
私は妻の言葉をそっと無視した。
そもそもすっかり忘れていたのだが、
そのことを悟られるのが癪だったのだ。
5月にしては気温が高く、ベランダには
すでに夏の匂いが立ち込めていた。

「ちゃんと口をゆすいでちょうだいね」
リビングに戻ると、妻は私の方を見向きもしないでそう言った。
なんで年号が変わった直後から
小言ばかり言われなければいけないんだ。
私は少しムッとして、妻に聞こえるか聞こえないかぐらいの音量で
ため息をつきながら洗面所へと向かった。
すれ違いざまに横目で妻に目を向けると、
彼女はかがんで足首をさすっていた。
その瞬間、なぜか妻の身体が
いつもより一回り以上も小さく見えて驚いた。

そう言えば、妻は
今年に入ってから足が痛いとぼやくようになった。
どうせ冬の寒さでそう感じるのだろうと、
私はずっと取り合ってこなかった。
結婚してからというもの、身体がだるいだの、腰がうずくだの、
ことあるごとに不調を訴え続けてきたからだ。
そして、それらの不調は翌日の朝にはすっかりと治っていた。
だから今回もなにかの思い込みだろうと、たかを括っていた。
でも、もしかしたら、今回は違うのかもしれない。

鏡に映った私は、健康そうな顔をしていた。
しかし、昔に比べると年老いたのも確かだ。
目尻には無数の皺が寄っていて、
頰にはまた新しい染みができていた。
試しにニッと笑ってみると、奥歯の銀歯がちらりと光った。
年齢に逆らって若作りをしているつもりはない。
ただ、どう考えても、
心だけは高校卒業以来なにも変わっていなかった。
私の心を置き去りにして、
私の身体と周りの環境だけが時を重ねていく。
祖父は「昔はできたことが年々できなくなっていくことが辛い」
と老いを嘆いていたが、
私は私の身体に置き去りにされていくことの方が辛い。
ふと、もしかして妻も
同じような悩みを抱えているのではないかと気になった。
私は歯ブラシを手に取り、歯磨き粉をつけた。
そういえば妻が買ってくる歯磨き粉も、
いつしか昔と違って刺激が少ないタイプへと変わっていた。

妻のことが気になるのは、久しぶりだった。
関係が冷え切っているとか、仲が悪いということは決してない。
高校のラグビー部で出会ってからというもの、
これまで大きな喧嘩は数回しかなかった。
バブルが崩壊して会社が潰れそうになった時も、
2人で身を粉にしながら娘を育てた。
娘が子供を家に連れてきた日の夜には、
ついにじいちゃんとばあちゃんになっちまったと、
2人して笑いながら泣いた。
でも、そんなことがあったとしても、
私はいつしか妻のことを気にかけなくなっていた。
足首を痛がる彼女を、私は自ら見過ごしていた。

換気だ、と私は思った。
私たちに必要なのは、しばらく距離を置くことでもなく、
昔の恋を思い出すようなロマンチックな体験でもない。
太陽で暖められた軽やかな空気を呼び込む、換気なのだ。
私は、急いでコップに水を注いで口をゆすいだ。
なぜ、こんなことに気づくことができなかったのだろう。
どんなに問題がなかったとしても、
ずっと締め切った空間にいれば
いつしかその関係は淀んできてしまう。
そういえば、最後に2人だけで旅行に行った日のことを
思い出すことすらできない。

洗面所を出たら、妻を旅行に誘おう。
私はすでに心を決めていた。
温泉がいいだろうか。
足首が痛いのなら、やっぱりそうだろう。
別に遠くに行かなくていい。
神社巡りとかもしなくていいし、
宿も高級である必要はまったくない。
ただ、露天風呂だけは欲しい。
遠くにひっそりと佇む山を眺めながら、
吹き抜ける風で火照った身体をゆっくり冷ましたいのだ。
妻は、なんて言うだろう。
きっと最初は戸惑うだろう。
なにせ、ついさっきまで嫌味を言われてふて腐れていたのだから。
でも、すぐに目尻に皺を寄せて笑いながら、
彼女はこう言うってくれる。

「いいじゃないの、せっかくの新時代なんだから。」





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